Driver's Salon
 クルマを愛して止まない「彼ら」との対話。それがレーサー鹿島のドライバーズサロン。

可夢偉マネージャー、マネジメントの真髄

(5月8日放送)
宮川マリオ

宮川マリオ
(みやかわ まりお)

1963年イタリア・トリノ市出身。
イタルデザイン(ジウジアーロ)の創設者である宮川秀之とマリーザ・バッサーノの間に、日本とイタリアの混血として生まれる。トリノ大学映画学科を中退のち、日本で黒澤明監督「乱」の助監督を努め、イタリア帰国後、ローマのチネチッタにてフェデリコ・フェリーニ監督の助監督を努める。「インテルビスタ」では、日本人クルーとして出演。日本とイタリア映画や文化の架け橋として数多くのプロジェクトを牽引。1987年よりコンパクト社を立ち上げ、日本のプロダクションの為にイタリアでのコーディネイション業務を開始。1990年より、要望の多かったスポーツマネージメント業務を開始、F1ドライバーのジャンアレジのマネージャーを皮切りに1999年から、イタリアサッカー界の至宝アレッサンドロ・デルピエロ、小林可夢偉のマネージャーを努める。トリノで開催された冬季オリンピックでは聖火ランナーに選ばれる。

このコーナーでは、レース関係者はもちろん、車を愛してやまない各界の有名人をゲストにお招きして、カーライフやレースのエピソードなど、その人物の本音にレーサー鹿島が迫ります。

今週は先週に引き続き、F1シーンで今最も注目される若手ドライバー・小林可夢偉のマネージャーで、映像プロデューサーでもある宮川マリオさんをお迎えします。じっくりとお楽しみ下さい。

ジャン・アレジと歩んだ20年
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鹿島 :今週のゲストは先週に引き続きまして、宮川マリオさんです。よろしくお願いします。

宮川 :どうも。

鹿島 :先週は小林可夢偉選手の素顔や、今のF1シーンの評価や戦いぶりについて伺いました。宮川さんは1991年にジャン・アレジ選手のマネージャーとしてF1の世界に入られたわけですが、どういう流れだったんですか。

宮川 :僕はとにかくF1が好きで、なんとかF1で仕事がしたいとずっと思っていたんですよね。それでティレルチーム、いまはもう無くなってしまったチームですが、当時はティレルはアルボレートとジョナサン・パルマーがドライバーでした。途中からアルボレートとジャン・アレジ選手に替わりました。当時のティレルのスポンサーは日本の大阪の会社だったんですが、僕はそのマネジメントをやっていて、そのスポンサーディナーでジャンと出会ったんですよ。彼は当時は本当に若くて、そんなに力が強くなかったし、誰も話しかけないようなところに一人でいました。そこで僕が近づいてちょっとイタリア語で話しかけたんですね。彼はお父さんがイタリア人だからイタリア語もペラペラで、すごく喜んでくれたんです。そこから少しずつ、2年間かけて友達になったんです。

鹿島 :それでジャン・アレジの方からマリオさんにマネジメントをやって欲しいという依頼があったんですか。

宮川 :そうですね。その2年間で僕はスポンサー関係の仕事をやったり、SHOEIのヘルメットの仕事をやったり。それでジャンと関係がだんだん深くなって、彼がティレルからフェラーリに移動した時に、「マネージャーになってくれないか」と言ってくれたんです。それから20年間ずっと一緒にF1を歩いたんです。

鹿島 :ジャン・アレジ選手といいますと、ティレルに乗っていた時代から、マシン本来の能力を最大限に、時にはそれを超えて飛び出したりしながら前のマシンに仕掛けていくというスタイルが印象に残っているんですよね。やっぱり私生活でも強気な、アグレッシブな方だったんでしょうか。

宮川 :彼は面白いのが、シシリアとフランスのコンビなんですね。だから本当に熱いラテン系の血が流れていて(笑) 普通の生活の時でも非常に明るくて、朝起きてからエネルギーいっぱいで、夜まで本当に子どもみたいにバッテリーのリチャージがすごく早いんですよね。

鹿島 :フフフ。

宮川 :ドライビングスタイルも非常にパワフルだし、ファンのみなさんはまだフェニックスグランプリで、ジャンのティレルとアイルトン・セナのマクラーレンのバトルを覚えていると思います。

鹿島 :あれはすごかったですね、本当に。

宮川 :素晴らしいバトルでしたね。その頃からジャンは、全世界のみなさんがファンになってくれて、愛してくれて。ジャンと一緒に世界を歩いていると、非常にそれを感じますね。いまでもF1のファンはジャンのことを忘れていないですね。


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あの頃のF1とカムイの可能性