Driver's Salon
 クルマを愛して止まない「彼ら」との対話。それがレーサー鹿島のドライバーズサロン。

カーデザインの未来を創ってきた男

(4月24日放送)

宮川秀之

©小川カズヤ

宮川秀之
(みやかわ ひでゆき)

1937年群馬県前橋生まれ。
早稲田大学在学中に、オートバイでの世界一周の旅へ。様々な国を訪れている途中、イタリア・トリノのモーターショーで運命の女性マリーザと出会い、結婚、永住を決意。カーデザインの鬼才、ジウジアーロと共にイタルデザインを創設し、数々の名車を世に送り出す。その後、トスカーナで共同農園ブリケッラを始め、有機農法をいち早く取り入れたワイン作りを手掛ける。また、農園に引きこもりの児童を引き取る活動も行っている。農園に住み込みで働いていた小川和也が監督を務めた映画「ピンクスバル」にエグゼクティブ・プロデューサーとして参加。

このコーナーでは、レース関係者はもちろん、車を愛してやまない各界の有名人をゲストにお招きして、カーライフやレースのエピソードなど、その人物の本音にレーサー鹿島が迫ります。

今週は先週に引き続きまして、イタリアからのお客さまです。1960年代にカーデザインの鬼才ジウジアーロとイタルデザインを興し、数々の名車を世に送り出してきた宮川秀之さんをお迎えします。じっくりとお楽しみ下さい。

鬼才ジウジアーロと共に
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鹿島 :今週のゲストは先週に引き続きまして、宮川秀之さんです。よろしくお願いします。

宮川 :よろしくお願いします。

鹿島 :先週は、宮川さんが大学在学中にオートバイで世界一周の旅に出られて、香港からカルカッタに入って、ローマに行かれて色々なことをやられている時にモーターショーで奥様に出会われてそのまま永住、というお話し。そして映画のお話しをしている間にあっという間に時間が過ぎ去ってしまったんですけど、今は『ピンク・スバル』という映画のエグゼクティブ・プロデューサーとして来日中で、このスタジオにお越し頂いています。ここからは先週伺いきれませんでした、あのジウジアーロとイタルデザインを一緒に興した頃のお話しを伺いたいと思います。1960年代のいつ頃だったんですか。

宮川 :66年に117クーペのプレゼンテーションがジュネーブでありましたかね。イタルデザインを創設する68年までの2年間はいすゞさんとの仕事を大変スムーズに運びまして、ジウジアーロと一緒に何度か日本を訪れています。それである時、ジウジアーロが大変シリアスに「これからのカロッツェリアは我々には向いとらん」と。それで「ぜひ量産車をデザインし、なおかつ基礎設計を出来るような、あるいはモデル、試作車を作れるような体制を我々で作る夢がある。お前も手を貸してくれ」という話が日本でありましてね、それでその旅でトリノに戻ったらすぐに、マントバーニという第3の男を紹介してくれました。当時はイタルデザインではなくイタル・スタイリングという私が名付け親になったグループが生まれます。そして68年から急成長してですね、それはアルファロメオと三菱重工・自動車事業部の大きなプロジェクトを2つ、あとは117クーペの量産化、それからスズキのキャリーと呼ばれている軽自動車などの仕事を一気に取りまして、それからスタートしたんです。私の存在というのは大変プラクティカルな要素がありまして、日本のメーカーさんはとにかく一度決めたら契約金をピタリと払う。ところがヨーロッパのメーカーさんは支払いがスローでございまして(笑) その辺が高く買われたようです。

鹿島 :フフフ、なるほど。やっぱりあれですね、学生時代に山口ベニーサイクルをスポンサーにして日本中を周り、石油会社をスポンサーにしてオートバイで世界一周の旅ですから、そのビジネスセンスみたいなものがさらに花開いたということですね。

宮川 :いやいや(笑)。

鹿島 :ジウジアーロについては、私たちも彼がデザインしたものにお世話になり、感動を受けています。もともとジウジアーロとの出会いはなんだったんですか。

宮川 :これはマツダ、東洋工業の松田恒次社長に、これからのクルマにおけるデザインの重要性をお話ししたところ、即日、デザイン課長の松井さんを「トリノに連れて行ってくれ。それで色々勉強してもらって、その上で必要であればぜひデザイン提携をしたい」と。ロータリーエンジンで沸いていたマツダですけど、非常にそういう真摯でスピーディーな決断でベルトーネとマツダとの仕事が始まるわけです。その時にチーフデザイナーだったのがジウジアーロだったんですね。一つ違いの弟分にあたるわけですから非常に仲良くなって、それから本当に親友というか得難い友になっていくわけです。

鹿島 :当時、日本人としてイタリアでデザインを、しかも自動車メーカーとのお仕事を一手に引き受けるような会社を共に興すというのは、当時の社会的なムードから行きますとかなり珍しいことだったんじゃないですか。

宮川 :やっている本人同士は無我夢中というところですかね。周りは、例えば大御所のピニンファリーナとかベルトーネ、あるいはカロッツェリア・ギアから見たらやっぱり「危なっかしいのが出てきたな」みたいな感じだったんじゃないですかね。



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