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鹿島 :今週は世界チャンピオンをこのスタジオにお招きしています! ラジコンカーで13回も世界大会を制しているチームヨコモの広坂正美選手です。よろしくおねがいします。
広坂 :よろしくおねがいします。
鹿島 :ラジコンと言えば…僕も小学校2年生くらいのときに、F2というヨーロッパを中心に行われているレースのラジコンを買いまして、一時期ハマりました。でも到底あれで世界に打って出るなんて夢にも思いませんでしたね。今日はいろんなお話しを聞かせてください。まず初めてレースに出たのは?
広坂 :7歳です。その時に初めてレースに出て優勝しまして、そこから始まりました。
鹿島 :7歳の時に一緒レースに出ていた人たちっていうのはどういう?
広坂 :クラスが小中学生クラスと一般の部に分かれておりまして、父親が一般の部で優勝。僕が小中学生の部で優勝したんです。
鹿島 :どんなレースだったか覚えてますか?
広坂 :ほとんどオーバル(楕円形のコース)なんですね。オーバルよりちょっと変形しているんですが、それを3周回ってタイムが速かった人が1位と。1回で走るのは5台とかなんですが小中学生は50〜60名だったと思います。
鹿島 :それからどういう道のりで世界へ行ったのかが興味深いんですが、そのころにはこの世界でやってこうと?
広坂 :はじめは本当に趣味で。父親も趣味で始めたんですが、数年して父親がラジコンカーを作る仕事を始めたんです。その父親が作ったクルマで僕がレースに出て、そこで成績を残せばそのクルマを宣伝できるわけですよね。そして地元の模型屋さんを通じてオリジナルのクルマを販売していたというのが始まりですね。
鹿島 :親子二人三脚でやっていくっていうのは素敵ですよね。でも逆にプレッシャーだったんじゃないですか?
広坂 :うん。やっぱりありましたね。裕福な家庭ではなかったので、商品が売れてくれないことには次のレースにも行けませんし。上のレースを目指そうということになると資金がついてこない。プライベートですからスポンサーもついてないし自力でやるしかなかった。それが小中学生の頃。はじめは地元・関西の京都・大阪・神戸…そのあたりで活動していて、名前を売って商品を売って。
鹿島 :はい。
広坂 :そして次に全国大会があることを知りまして、それに挑戦することになったんです。それが中学・高校生くらいのころ。何度か挑戦するんですがなかなか勝てなくて。それでも5回目の挑戦で初めて日本チャンピオンになったんです。その時もほとんどプライベートの状態。他の人たちはタイヤも新品をどんどん使えるんですが僕たちは新品は使えないので、前年の選手権で捨てていったタイヤを拾ってずっと使っていくんです。
鹿島 :えぇー?
広坂 :そういう状態で大会に行くわけですからスピードは負けるんですが、僕はスピードが遅いということを認識していたのでコーナーで稼ぐしかないと。だから人一倍イン側を走れるような練習を続けてきました。
鹿島 :短い距離を無駄なく通って…という感じですね。
広坂 :はい。当時の全国大会のルールは“限られた時間の中を何周走れるか”ということで、8分間というタイムがあって、そのタイムの中で速いスピードで走らなければいけないんですね。でもスピードを上げるとバッテリーがもたない、かといって遅いとタイムがでない。ですから最短距離を走れば一人だけ短い距離ですむわけです。そこを狙って、とにかく直線では抜かれるけどカーブで抜き返すというスタイルでやってきまして。
鹿島 :カッコイイですね。
広坂 :それでチャンピオンになりましたので、すごくインパクトも大きかったですしスポンサーもつくようになりました。そこから世界選手権に挑戦できるようになっていったんです。
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