Driver's Salon
 クルマを愛して止まない「彼ら」との対話。それがレーサー鹿島のドライバーズサロン。
ケン田島 元祖マルチ人間。



76年、F1グランプリが日本にやって来た。
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鹿島 :1976年と77年にF1が日本にやって来ました。これはビックイベントが来たな。という感じでしたか?

田島 :あの時は、わたくしも競技長補佐と場内アナウンスと両方やっておりましてね。やっぱり大変なスリルですよ。例えば76年の時は、ジェームス・ハントというのが富士で3位に入ったんです。その3位に入ったお陰でその年のチャンピオンになったんです。チャンピオンですから当然表彰式に出なければいけない。でも、何処かよそに行かなければ行けないというので、オートバイに乗って帰っちゃったんですよ。それで、ひんしゅくを買いました。飛行機が間に合わないという事でしたが、やっぱりちょっと難しいところですね。

鹿島 :実は、今回の富士スピードウェイのフィナーレイベントには、77年のF1グランプリを走った、‘ウォルターウルフ・レーシング’の『WR1』という黒とゴールドのフォーミュラ1のマシーンが来るんです。

田島 :そうですか。

鹿島 :76年、77年のF1では、何人かの日本人トップドライバーのみなさんが挑戦されていますが、現場で見られていてどうでしたか?

田島 :ちょっと寂しかったですね。気の毒ですけど、成績の方が。申し訳ないですけど…。

鹿島 :星野一義さん、高橋国光さん、長谷見さんなど。77年には、高橋国光さんが日本人最上位の9位でした。後は色々トラブルがあったり、思うように実力が発揮出来なかったりしました。悔しい、寂しいという気持ちがあったんですか?

田島 :いつもそうじゃなかったですか。グラチャンにしても、F2、F3000にしてもそうです。外国勢が日本に来て2〜3日練習して、上位に食い込んじゃう。やっぱり体が違うのかなと、思っちゃうんですね。

鹿島 :数年前に日本人ドライバーが、F1の一つ下のクラスといわれているフォーミュラ3で、フランス・イギリス・ドイツでチャンピオンを取ったんですね。だんだん時代も変わっていますかね。

田島 :でも、野球のほうは凄いじゃないですか。ですから、F1とかゴルフでも、日本人選手がもうちょっと頑張って欲しいなあと思います。





よろずやです。
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鹿島 :ケン田島さんは、モーターショーにも通訳として回られたとお聞きしているんですけど。

田島 :はい。長い間、トヨタ自動車さんの重役の通訳を、海外と国内でやりました。外国人の新聞記者を呼んでの試乗会での通訳もやりました。もっと堅いところでは、衆議院の列国議会同盟というのがございまして、年に2回、世界のどこかでやるんですが、そこで政治問題の同時通訳もやりました。

鹿島 :モーターショーでは、どんな国に行かれましたか?

田島 :ジュネーブですね。後はそれほど行っていません。東京のモーターショーは、たいがい行っていました。

鹿島 :モーターショーはずっと観られていますね。

田島 :はい。一つには、モーターマガジンという雑誌がございまして、これが1973年に英語版を出したんです。わたくしが編集次長という事になりましてね。まあ編集次長といいましても、実際は翻訳が多かったんですがね。それでも自動車が好きなもんですから。それで、日本自動車ジャーナリスト協会に入りまして、今もメンバーです。

鹿島 :ホントに多彩ですね。

田島 :とんでもないよろずやです。

鹿島 :その器用さとパワーの源というのは、何だと思われますか?

田島 :ハハハ。なんでしょう。あのね、英語で、『なんでもやるけど、どれも満足にできない。』という表現があるんです。まさしく私の事です。

鹿島 :いやいや。そんな事はないと思います。また来週もぜひお越し頂きたいと思います。ありがとうございます。

田島 :はい、よろしくお願いします。ありがとうございます。







今週のゲストは、
バイリンガルDJ、ディスクジョッキーの草分け的存在として、ラジオで一世を風靡。
1960年代からサーキットの実況アナウンサーとしてもご活躍されました、
ケン・田島さんをお迎えいたしました。

ドライバーズサロン!
来週もケン田島さんをお迎えしてお送りいたします。
どうぞお楽しみに!



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