Driver's Salon
 クルマを愛して止まない「彼ら」との対話。それがレーサー鹿島のドライバーズサロン。

元祖マルチ人間。

(9月7日放送)
ケン田島 ケン田島

ケン田島(本名:漆原一郎)
1930年(昭和5年)10月20日、英国はロンドン生まれ。
戦後、連合軍総司令部検閲局出版物検閲・翻訳、在日米国大使館広報文化局ラジオ・テレビ部、広告・PR部等への勤務を経て、1976年からラジオ関東(現ラジオ日本)で「ポート・ジョッキー・ショー」のDJを担当。TBSでアポロ11〜17号の打ち上げ生中継の同時通訳も務める傍ら、富士スピードウェイで長年実況を担当。無類のクルマ好きとDJ調のおしゃれな語りに、当時のモータースポーツファンから絶大な人気を誇る。現在は東京杉並区のアオパージャパンインターナショナルスクールに勤務。紳士なおしゃべりとクルマ好き、モータースポーツ好きは今も変わっていない。

このコーナーでは、レース関係者はもちろん、車を愛してやまない人気アーティストをゲストにお招きして、カーライフやレースのエピソードなど、その人物の本音にレーサー鹿島が迫ります。

今週のゲストは、この方の声と共に青春時代があった・・・そんな方も多いはずです。バイリンガルDJ、ディスクジョッキーの草分け的存在としてラジオで一世を風靡。1960年代からサーキットの実況アナウンサーとしてもご活躍されました、ケン田島さんです。じっくりお楽しみください。


英国生まれの帰国子女!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鹿島 :今週のゲストは、このお方です。

田島 :ケン田島です。こんばんは。よろしくどうぞ。

鹿島 :よろしくお願いします。ケン田島さんは、1966年の第3回 日本グランプリから、富士スピードウェイで実況をされていらっしゃいます。

田島 :はい。日本グランプリ、やがてグラチャン、耐久レース、それからカンナムも来ましたよね。アメリカからインディもやって来ました。そういったレースを全部やりました。しかも、外国の選手が多いものですから、なんとか英語と日本語、両方でやれというので忙しいですよね。だいたい、走っておりますと、1周…1分15〜20秒でしょ。その間にトップの10台ぐらいは言いたいんですが、それを全部、英語と日本語でやると大変なんですね。

鹿島 :はい。

田島 :ですから、英語の方は、3周おきぐらいにやっておりました。それでも、向こうのチームのみなさんは「ありがたい、助かる!」というような事を言っておりました。

鹿島 :元々どういったわけで、英語がそんなにご堪能なんですか? 

田島 :英国で生まれたんです。生まれて10年おりました。戦前の帰国子女という事になるわけなんです。中学2年の夏休みはアルバイトで通訳をしておりました。今の宝塚の前身、そこを進駐軍が『アーニー・パイル劇場』として使っていたんですが、そこの洋服部、衣装部の通訳をしていました。それで2学期、3学期の月謝が払えていたんです。

鹿島 :素敵ですね。英語の通訳というのは、かなり特殊な技能ですから、当時の中学生のアルバイトとしては良かったのでは?

田島 :実は英国で生まれたものですから、今でも国籍は英国なんです。その当時は外国人扱いで、食事付き・月給1500円だったんです。ですから、あの時はオイシかったですね。

鹿島 :当時の1500円といいますと、どんなもんだったんですか?

田島 :どんなもんなんでしょうかね。比較の仕様がないですね。あの、‘封鎖’というのがありましてね。現金は700円しか出せないんです。サラリーマンがいくら給料が上がっても、毎月現金で出せるのが700円で、また700円で生活が出来た時代ですから。だからいい時代だったね。その当時、鉄道模型などを買ったりしてちっとも残っていませんわ。バカですね。

鹿島 :ハハハ。さて、9月15日に、富士スピードウェイがフィナーレイベントをもってしばらくのあいだ大改修工事に入ります。当時の思い出をお伺いしていきます。1966年の第3回日本グランプリ。これにはどのような想い出が残っていらっしゃいますか?

田島 :車検をやりましても、車検の役員がリアエンジンなんかをよく知らないんですね。コルベットがあって、『あれ、このクルマ、エンジンがないじゃないか。』とか、ポルシェが来て後ろを開けたら、『あっ、スペアエンジン積んでますね。』とか、そういう事があったと伺っております。

鹿島 :ホホホ、そうですか。

田島 :ええ。あの頃は混成レースでしたからね。ジャガーEタイプとか、コルベットと一緒に走るんです。それから面白いクルマが走っていましたよ。普通の乗用車が、ほとんどチェーンアップしないで走っているんですからね。1966年 第3回の日本グランプリで、イタリアのタルフィーという、ミレ・ミリアという100キロのレースがございますね。あのレースで最後に優勝した選手がゲストに来まして、講習会を開いたんです。

鹿島 :はい。

田島 :わたくしが通訳をやりましてね。「大きく入って、小さく回って、大きく出る」とか。いろんな事を一生懸命に通訳をして、後でみなさんがクルマに乗ってそれをやるんですが、その時、六十何歳だったかな? 頭が真っ白で、銀ぎつねの彼に全くついていけなかったですね。その時、彼が使っていたクルマが1500CCの国産のスポーツカーでした。すぐにデフがダメになっちゃって、ホイルが片いっぽうに寄っちゃって、おかしくなっちゃったんです。彼の激しい走りに、クルマがついていかなかったんですね。

鹿島 :大きく入って、小さく回る。これは、アウト・イン・アウトという鉄則ですよね。

田島 :そうです。そういう事を、当時レースを始めたばかりの日本の人達に教えたわけなんです。



next page
76年、F1グランプリが日本にやって来た。